| 2006/04/02 |
| ■上野国分寺 |
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すでに完全に昔の建物は消滅して 現在その跡地は復元された金堂基壇と七重塔基壇、南面塀のみを見る事が出来ます 国分寺に関しては非常に学問的でWEBマスターには手に負えませんので最適なサイトがありますのでそちらをご参考ください ■http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/ ■簡単な説明はここ 上野国(昔の群馬県)は非常に特異な地域です 近世から現代は近畿地方と関東地方の交通はおもに東海道が主でしたが江戸時代前半以前までは今の中山道に準じた東山道ルートで近畿から関東地方に人、物資が移動していました 東山道は最終的に奥羽地方にむかいましたが 当時、関東地方に入る唯一の方法はこの道の碓井峠(現在よりすこし南)からでした 結果、群馬県は関東地方の入口として大変栄え その所為か上野国国分寺は何処よりも大きな七重塔が建てられたとの事です 群馬県は日本国内でも近畿に続き古墳の数が多いのも又特筆すべき事ですが その古墳が最近は渡来人の持ち込んだ墓地形式なのは通説です 群馬県の資料をひも解くと当時中央で失脚したり、スパイとして捕らえられた渡来人はほとんどここに流されたといいます その事から近畿の古墳は『勝ち組渡来人』群馬の古墳は『負け組渡来人』との考え方が有る様です 負け組渡来人といっても政敵との戦いに敗れた程度ですとかなりなリーダー資質はあったわけですから 古墳を作る程の地域の名士程度にはなったのでしょうね この国分寺はそんな名士集団の熱心な寄進(?)で瓦が焼かれていた様です 大まかに利根川以西の名士集団(こちらの瓦は藤岡で焼かれましたが驚く事に現在でも藤岡は高級工業瓦として有名な生産地です)と利根川以東の名士集団の寄進した瓦が出土するときいた事がありますが昔も今もお寺は名士の寄進で体面を整えるんですね(笑) ちなみに『平将門の乱』の時の将門『親王宣言』はここの場所でした 将門さんは下野国(栃木県出身)で馬の生産武士で現代の自動車生産メーカー『トヨタ』とか『日産』の社長さんみたいなもので中央からの嫌みや圧力でそうりゃ反乱起こすだけの不満と膨大な資金をもっておりました 結果、関東地方の一番の町まで登って大騒ぎしたらしいのですが その時に残っていた国分寺の建物は灰燼に帰したと言う話がありますがほんとですかね? |
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